Story
不動産仲介の主任が、覚えた言葉を捨てた話
提案は、三十秒で終わった。
大石が話し終える前に、店長が「まあ、うちはうちのやり方があるから」と言って、次の議題に移った。
大石は資料を伏せた。半年かけて勉強したことの、最初の一回目だった。
大石は三十七歳。駅前の不動産仲介で、主任になって二年になる。
店は八人。売買が三人で、賃貸が五人。大石は賃貸側の主任だった。
去年から、仕事のあとに通信講座を受けていた。マーケティングの基礎を扱う講座で、修了までに七か月かかった。
会社には言っていなかった。言うほどのことでもないと思っていた。
大石が講座を受けたのは、店の集客が落ちていたからだった。
反響が減っている。ポータルサイトの掲載数は増やしているのに、問い合わせが増えない。
店長は「掲載を増やせ」と言い続けていた。大石は、それでは変わらないような気がしていた。ただ、なぜそう思うのかを説明できなかった。
説明できるようになりたくて、勉強を始めた。
半年後、大石は説明できるようになった、と思っていた。
会議で大石はこう言った。
「うちはターゲットのセグメンテーションができていないので、掲載を増やしても刺さらないんです。ペルソナを設定して、そこから訴求を作り直すべきだと思います」
店長は、資料を三秒見て、顔を上げた。
そして「まあ、うちはうちのやり方があるから」と言った。
大石は、その夜かなり腹を立てていた。
聞く気がない。古いやり方にしがみついている。この会社では何も変わらない。
そう思って、転職サイトを開いた。開いて、三十分眺めて、閉じた。
一週間ほどして、大石は同期に電話した。
別の会社に移った男で、酒を飲むと説教くさくなるが、話は聞く。
大石が経緯を話すと、相手は少し黙ってから、こう聞いた。
「そのセグメンテーションって、店長に説明したん?」
「したよ。だから通らなかったって話」
「いや、言葉の意味。店長、その言葉知ってた?」
大石は答えられなかった。
店長は五十四歳で、二十九年この業界にいる。
ポータルサイトが出てくる前から、駅前で店をやってきた人だった。数字の勘は大石よりずっといい。
その人に向かって、大石は三つの外来語を続けて使っていた。
店長は、内容が間違っていると言ったのではなかった。何を言われているのか分からなかったから、話を終わらせた。
大石は資料を作り直した。
今度は、覚えた言葉を一つも使わなかった。
代わりに、店の過去一年の問い合わせを種類ごとに数えた紙を作った。
問い合わせの六割が、家賃七万円以下の単身向けだった。掲載を増やしていたのは、ファミリー向けの物件だった。
紙にはこう書いた。「反響の六割は単身。掲載を増やしているのはファミリー。ここが合っていないのではないか」
次の会議で、大石はその紙を出した。
店長は、今度は三十秒以上見ていた。
「六割? そんなにあるか」
「数えました。去年の四月からです」
店長はしばらく黙って、それから「一か月、単身のほう増やしてみるか」と言った。
大石が半年かけて学んだことは、その一言に全部入っていた。ただ、言葉は一つも使わなかった。
すぐに数字が動いたわけではない。
一か月目は変わらなかった。二か月目に少し増えて、三か月目にまた戻った。
大石は、そのたびに数えた紙を出した。出し続けたのがよかったのか、四か月目から店長が自分で数字を聞くようになった。
「今月の単身、どうだった?」
この一言が出るまでに、四か月かかった。
大石はいま、後輩に同じことを言っている。
勉強するのはいい。ただ、覚えた言葉をそのまま持ってくるな、と。
「翻訳してから出せ。翻訳できひんかったら、まだ自分のもんになってへん」
これは、同期に言われたことをそのまま使っている。
あの日の資料は、まだ引き出しに入っている。
三十秒で終わったほうの資料だった。
大石は、たまに見返す。書いてあることは、いまも間違っていないと思う。
間違っていたのは中身ではなく、誰に向かって書いたかのほうだった。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。