Story
現場監督が、朝礼で理由を言い始めた話
剥がした天井から、思っていたより多くの配線が出てきた。
築三十年のテナントビルの改修で、四階の一室。図面にない線が二本、梁の裏を這っている。杉本は脚立の上から手を伸ばして、埃を払った。
社員十八人の建設会社で、現場監督をして十二年になる。職人はほとんど外注で、年上のほうが多い。
手戻りが出たのは、その週の水曜だった。
杉本は月曜の朝に、内装の下地を先に組んでおくよう指示していた。図面も渡した。行ってみると、下地はきれいに組み上がっていた。ただ、点検口の位置が図面のままだった。
先週の打ち合わせで、テナント側の要望で点検口を五十センチずらすことになっていた。杉本はその変更を頭に入れて図面を渡し、口では言わなかった。
組み直しになった。
親方の三沢は、六十近い。杉本より二十年長く現場にいる。
「言われた通りにやったけどな」
その通りだった。責める場所がない。杉本は「すいません、こっちの伝え忘れです」と言って、その日のうちに組み直しの段取りをした。工期は二日押した。
帰りの車で、ハンドルを握りながら考えていたのは、なぜ三沢は変更に気づかなかったのか、ではなかった。なぜ自分は言わなかったのか、でもなかった。
言ったつもりだった、という感覚だけが残っていた。
翌週、若い職人が入った。二十五、六の、まだ二年目くらいの子だった。
杉本が「ここ、先に塞いどいて」と言うと、その子は手を止めて聞いた。
「なんで先なんですか」
一瞬、面倒だと思った。理由を説明している時間はない。ただ、聞かれた以上は答えないと格好がつかないので、杉本は言った。
「あとで足場入れると、ここ入れなくなる。塞ぐの、来週になる」
「あー、なるほど」
その子はそれだけ言って、作業に戻った。
夕方に見に行くと、塞ぐだけでなく、その隣の開口部も先に処理してあった。足場が入ったら届かなくなる場所を、自分で見つけていた。
杉本は指示していない。
その夜、事務所で日報を書きながら、杉本は三沢のことを考えていた。
三沢は腕がいい。指示すれば、指示した通りに、きれいに仕上げる。三沢が点検口の変更に気づかなかったのは、注意力の問題ではない。
三沢は、なぜその位置なのかを知らなかった。
知らなければ、変更が図面のどこに効くのかも分からない。図面の線を見て、線の通りに組む。それは正確な仕事で、間違ってはいない。
杉本は、自分が何を渡していなかったのかにようやく気づいた。
指示は通っていた。理由が通っていなかった。
「言ったつもり」の正体は、これだった。杉本の頭のなかには、点検口をずらす理由も、その先の工程も、テナントの都合も全部あった。渡したのは、そのうちの結論だけだった。
次の週から、杉本は朝礼で一つだけ理由を言うことにした。
その日の作業のなかで、いちばん間違えられたら痛いところを一つ選んで、なぜそうするのかを付ける。三十秒で終わる。
「今日、天井は東側から。西側から行くと、明日の搬入で塞がる」
それだけ。
最初の週で、二回、職人のほうから確認が入った。「じゃあ、こっちも先にやっとくか」と三沢が言った日もあった。
崩れたのは三週目だった。
朝から資材の納品が遅れて、段取りが総崩れになった日、杉本は朝礼を三十秒で終わらせた。理由を言う余裕がなかった。
翌日も、その翌日も、言わなかった。一度飛ばすと、次の日も飛ばしていいような気がしてくる。
気づいたのは、また小さな手戻りが出たときだった。大きくはない。半日分。ただ、原因は同じだった。
杉本は、朝礼で使っているホワイトボードの端に、線を一本引いた。
作業予定の下に、幅十センチほどの欄を作って、そこに「なぜ」と書いた。
空欄のまま朝礼を始めると、自分でも落ち着かない。埋めるために、前の晩に一つ考えるようになった。忙しい朝ほど、考える時間がないので、前の日に決めておくしかない。
気合いでは続かなかったが、空欄は埋めたくなった。
二か月たって、何かが劇的に変わったわけではない。
手戻りはゼロにはならない。工期が縮んだという実感もない。
ただ、三沢が「それ、なんでそうすんの」と聞いてくるようになった。杉本が答えると、「じゃあ順番逆のほうがよくないか」と返ってくることがある。だいたい、三沢のほうが正しい。
杉本は、自分が十二年やってきた仕事の何割かを、渡し忘れていたのだと思う。
朝の現場は冷える。
杉本はホワイトボードの前に立って、下の欄に短く書き足した。
「なぜ:明日、ここに足場が入る」
職人が集まってくる。杉本は顔を上げた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。