Story
配車担当が、辞めたい理由を紙に書いた話
転職サイトのアプリを開くのは、たいてい火曜の夜だった。
月曜は疲れすぎていて何もできない。水曜になると週の半分が終わって、少し持ち直す。火曜の夜がいちばん低い。
森下は、条件を絞り込んで、十件ほど眺めて、何も保存せずにアプリを閉じた。
四十七歳。従業員三十人ほどの運送会社で、配車をやっている。ドライバーを八年やって、腰を痛めて内勤になった。
辞めたいと思いはじめてから、五年たっていた。
その五年で、応募したことは一度もない。
理由を聞かれれば、いくらでも出てくる。給料が上がらない。社長のワンマン。急な依頼を断れない。ドライバーからの突き上げと、客からの無理と、両方が全部こっちに来る。
ただ、その理由を人に説明したことも、書いたこともなかった。
そのままだったのが、十月に少し動いた。
高校生の娘が、進路の紙を持ってきた。志望理由を書く欄がある。
娘は「書けん」と言って、テーブルに突っ伏した。
森下は、なんとなくこう言った。
「思いつくやつ、全部書き。いいやつ選ぶんは、そのあとでええ」
娘はしばらく黙って、それから書きはじめた。二十分後には埋まっていた。
森下は、そのあいだ横で麦茶を飲んでいた。
五年迷っていることについて、自分は一度も、思いつくやつを全部書いたことがなかった。
その週の土曜、森下は台所のテーブルでノートを開いた。
書き出してみると、十二個あった。
そこから、線を引いて二つに分けた。転職しても付いてくるものと、この会社を出れば消えるもの。
右側、出れば消えるほうに入ったのは、社長の機嫌で朝礼の長さが変わること、賞与の基準が誰にも分からないこと、この二つだけだった。
左側は十個あった。
急な依頼を断れないのは、この業界のどこでも同じだった。板挟みも、配車という仕事の構造そのものだった。腰の件は、どこへ行っても付いてくる。
森下は、しばらくノートを見ていた。
五年間、自分は会社が嫌だと思っていた。書き出してみると、そのうちのほとんどは、仕事の中身のほうだった。
書いたあと、少し楽になった。
楽になって、そのままノートを閉じた。
年が明けて、二月の火曜の夜、森下はまたアプリを開いていた。前と同じように十件眺めて、閉じた。
そのとき、ノートのことを思い出した。
探すと、台所の引き出しの奥から出てきた。読み返して、森下は自分に少し呆れた。四か月前に整理したことを、一つも覚えていなかった。
書いただけでは、残らない。
森下は、ノートを冷蔵庫の上に置いた。目に入る場所で、家族が開けない場所を選んだ。月に一度、給料日の夜に読み返すと決めた。
三月、五月、七月と読み返した。
内容はあまり変わらなかった。ただ、右側に一つ増えた。新しく入った専務が、配車の判断に口を出してくるようになったことだった。
右側が三つになった。
森下は、右側が五つを超えたら本気で動く、と決めた。数に根拠はない。ただ、決めておかないと、また火曜の夜に眺めて閉じるだけになる。
一年たったいまも、森下は同じ会社にいる。
辞めたわけでも、辞めないと決めたわけでもない。
変わったのは、火曜の夜にアプリを開かなくなったことだった。開いても何も選べないことが分かっているので、開かない。代わりに、月に一度ノートを見る。
迷っていることは、いまも迷っている。ただ、何に迷っているかは分かっている。
それだけで、火曜の夜が少し短くなった。
給料日の夜、森下は冷蔵庫の上に手を伸ばした。
ノートを開いて、右側の三つを読んだ。増えていなかった。
閉じて、元の場所に戻した。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。