Story
病院の医事課主任が、面談の前に一枚だけ作った話
面談は、毎年十五分で終わる。
事務長は書類を見ながら「まあ、安定してるね」と言う。谷口は「ありがとうございます」と言う。それで終わる。
七年、ほとんど同じだった。
谷口は三十六歳。二百床ほどの病院の医事課で、主任になって三年目になる。
レセプトの点検、窓口の統括、算定要件の確認。数字が合わないと止まる仕事で、合っているときは誰も何も言わない。
去年、谷口は返戻の件数をかなり減らした。月に平均で四十件あったものが、十件台まで落ちた。
面談で、その話は出なかった。
不満がなかったわけではない。
ただ、自分から言うのは違うと思っていた。見ている人は見てくれる。仕事で示すものだ、と。
そう思いながら、面談のあとの一週間はいつも機嫌が悪かった。
夫に「なんかあった?」と聞かれて、「別に」と答える。何かあったわけではない。何もなかったから、腹が立っていた。
変わったきっかけは、隣の課の主任だった。
地域連携室の主任が、面談のあとに昇格したという話が回ってきた。谷口より二つ下で、着任は谷口より遅い。
谷口は、正直なところ納得できなかった。
昼休みに、その主任と一緒になったとき、思い切って聞いてみた。面談で何を話したのか、と。
相手は少し笑って、「紙、持ってったんですよ」と言った。
一枚だけ作ったのだという。
一年で自分がやったことを、三つだけ書いて、それぞれに数字を添えた紙。事務長は「へえ」と言いながら、それをずっと見ていたらしい。
「別に自慢したわけじゃないんです。事務長、うちの課の細かいことまで知らないので」
谷口は、その言い方に引っかかった。
知らない。
谷口は事務長を、見ていないのだと思っていた。見ていないのではなく、知らないのだとしたら、話が変わる。
その夜、谷口は事務長の一年を想像してみた。
病棟の看護部があり、リハビリがあり、検査があり、事務がある。職員は三百人近い。事務長は経営会議に出て、理事長に説明して、監査の対応をしている。
そのなかで、医事課の返戻が四十件から十件台に減ったことを、事務長はどこで知るのか。
谷口は、誰にも報告していなかった。数字は月次の資料に載っている。載っているが、その資料は十二ページある。
見ていないのではなかった。思い出してもらえていなかっただけだった。
次の面談まで、八か月あった。
谷口は、机の引き出しにA4の紙を一枚入れて、何かやったときにその場で一行だけ書くことにした。
最初の月に書いたのは二行だった。
書くことがないのではなかった。書くほどのことではない、と自分で判断して消していた。
谷口は基準を下げた。「先月と違うことをしたら書く」に変えた。すると、月に五、六行になった。
三か月目に、一度止まった。
忙しかった月で、紙のことを忘れていた。思い出したときには、何をしたか思い出せなくなっていた。
谷口は、紙を引き出しから出して、パソコンのモニターの横に貼った。
人に見られるのが少し恥ずかしかったが、誰も気にしていなかった。
面談の一週間前、谷口は一年分の行を数えた。
四十七行あった。
そこから三つを選ぶのが、いちばん難しかった。全部書きたくなる。全部書くと、たぶん読まれない。
谷口は、病院にとって何が大きいかで選んだ。返戻の削減、新人二人の立ち上げ、施設基準の届出の期限管理。
それぞれに数字を添えた。四十件が十二件に。育成期間が六か月から三か月に。届出の遅延がゼロに。
面談は、十五分では終わらなかった。
事務長は紙を見て、「返戻、こんなに減ってるの」と言った。
「去年の四月からです」
「知らなかった。これ、金額でいうといくら?」
谷口は答えられなかった。件数は数えていたが、金額にはしていなかった。
「次までに出しといて。会議で使いたい」
その年、谷口の評価は上がった。大きくは変わらなかったが、上がった。
それより大きかったのは、事務長が翌月から、月次の会議で医事課の数字に触れるようになったことだった。
谷口が変えたのは、仕事の中身ではない。
やっていることは去年と同じだった。伝わる形にしただけだった。
いまも、モニターの横に紙が貼ってある。
今年の分は、まだ十九行しかない。
谷口は、面談の前の週になってから慌てて思い出すのを、もうやめた。思い出せないことは、書いていないだけで、なかったことにされる。
それは七年かけて、ようやく分かったことだった。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。