Story

印刷会社の営業が、通帳を一年分ひらいた話

印刷・中小 営業・40代後半 お金

眠れない夜に考えるのは、たいてい金のことだった。

具体的な額ではない。足りるのか足りないのか、それだけが頭のなかを行ったり来たりする。

朝になると忘れる。そしてまた、二週間ほどして思い出す。


杉本は四十七歳。社員三十人ほどの印刷会社で、営業を二十三年やっている。

紙の仕事は減っていた。減っているのは分かっていたが、うちが潰れるという話でもなかった。給料は上がらないが、下がってもいない。

子どもは二人。上が高二で、下が中二。

妻には「一回ちゃんと計算しよう」と何度か言われていた。そのたびに「そのうちな」と答えていた。


計算したくない理由を、杉本は自分では分かっていなかった。

面倒だからだと思っていた。実際は、たぶん違った。

計算して足りないと出たときに、どうすればいいか分からなかった。分からないものを目の前に出したくなかった。

そのほうが、漠然と不安なままでいるより苦しいと、なんとなく思っていた。


きっかけは、保険の更新の通知だった。

二十代のときに入った医療保険の、更新の案内が来た。保険料が上がると書いてある。上がる額を見て、杉本は少し驚いた。

驚いたのは金額ではなく、自分がその保険の中身をまったく覚えていなかったことだった。

入院したら日額いくら出るのか、言えなかった。二十三年、毎月払っていた。


その週末、杉本は通帳を出した。

やろうとしたのは、家計簿ではない。妻が昔つけていて、三か月で挫折したのを見ていたから、同じことはしないと決めていた。

やったのは一つだけだった。毎月、自動で出ていっているものを、全部書き出す。

通帳とカードの明細を一年分ひらいて、毎月同じ日に同じ額が出ているものに印をつけていった。


二時間かかった。

紙には十九項目が並んだ。

住宅ローン、光熱費、通信費が三つ、保険が四つ、車の維持、子どもの塾と習い事、新聞、駐車場、それから名前を見ても何か分からないものが二つ。

分からないものが二つあった、というところで杉本は手が止まった。

月に千八百円と、月に四百八十円。合わせて年間二万七千円ほど。何に払っているのか、思い出せなかった。


調べたら、片方は十二年前に入った有料の会員サービスだった。もう片方は、使っていない動画の契約だった。

止めた。手続きは合わせて二十分で終わった。

年間二万七千円が浮いた。大きい額ではない。

ただ、杉本はその夜、少し眠れた。


効いたのは、二万七千円ではなかった。

十九項目のうち、十七までは中身を説明できたことだった。

不安だったのは、金額を知らなかったからではない。何項目あるのかを知らなかったからだった。数えられないものは、いくらでも大きく見える。

十九だと分かった時点で、それは数えられるものになった。


杉本は次に、保険に手をつけようとした。

四つあるうち、二つは中身が重なっている気がした。

ここで杉本は、一度失敗している。

ネットで調べて、いらないと書いてあった一つを解約しようとして、妻に止められた。

「あなた、去年の健康診断で引っかかってたでしょう。解約したあと、入り直せなかったらどうするの」

杉本は、その順番を考えていなかった。


そこからは、月に一項目と決めた。

四月は通信費を調べた。五月は保険の証券を四通そろえて、保障の中身を表にした。六月は何もできなかった。忙しかった。

七月に再開して、公的な医療保険にどこまで守られているかを調べた。高額療養費という制度があることを、杉本はそのとき初めてきちんと理解した。

知ってみると、四つのうち一つは、たしかに要らないかもしれなかった。


一年で、月の固定費は一万四千円ほど下がった。

杉本が驚いたのは、その一年間、生活で我慢したことが一つもなかったことだった。

外食も減らしていない。ビールも変えていない。

削ったのは、払っていることを忘れていたものだけだった。


いま、杉本の家の食器棚の引き出しに、あの十九項目の紙が入っている。

去年より二項目減って、十七になった。

将来の不安が消えたわけではない。上の子の学費はこれからだし、印刷の仕事が増える見込みもない。

ただ、夜に思い出す回数は減った。

思い出したときに、紙を出せばいい。出せば、数えられる。それだけのことだった。

この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。