Story
50代の課長が、年下に教わると言った話
会議室のプロジェクタに映っている画面が、何のツールなのか分からなかった。
説明しているのは、三年目の田島。手元を見ずに操作している。画面がいくつかに分かれて、右側の欄に何かが流れていく。
「ここでフローが自動で走るので、承認の待ちが可視化されます」
周りがうなずいている。峰岸もうなずいた。
五十三歳。地方銀行の本部で、業務企画の課長をしている。
分からなくなったのは、二年ほど前からだった。
正確には、分からないものが出てきたのはもっと前で、二年前から、追いつくのをやめた。
峰岸には二十九年ぶんの土地勘がある。どの部署に話を通せば動くか、どの案件が何年前にどう転んだか。それは若手にはない。だから会議では、自分が話せる話をした。話せない部分は、うなずいた。
誰も困っていないように見えた。
困ったのは、六月の役員報告の前だった。
資料の数字の出どころを聞かれて、峰岸は答えられなかった。田島が作ったツールから出た数字で、どの範囲を集計しているのかを把握していなかった。
その場は田島が答えた。役員は「ああ、なるほど」と言って終わった。
会議室を出たあと、部長が横に並んで、こう言った。
「峰岸さん、あれ、自分で説明できるようにしといたほうがええよ」
怒られてはいなかった。ただ、その一言のほうが長く残った。
峰岸は、自分が何を守っていたのかを考えた。
課長という立場で、三年目に手取り足取り教わるのは格好がつかない。そう思っていた。部下の時間を奪うのも申し訳ない。
ただ、六月の会議で奪われたのは、田島の時間だった。峰岸が答えられなかったぶんを、田島がその場で埋めた。
知らないことを隠していた期間、峰岸は誰の負担も減らしていなかった。
教わることを恥だと思っていた。恥をかいたのは、教わらなかったほうだった。
七月の頭、峰岸は田島に声をかけた。
言い出すまでに、三日かかった。
「田島くん。あのツールの中身、俺に教えてくれんか。週に十五分でええ」
田島は少し驚いた顔をして、それから「全然いいですよ」と言った。あまりにあっさりしていて、峰岸は三日ぶんの重さを損した気がした。
金曜の夕方、十五分。それだけの約束にした。
最初の三回は続いた。四回目が飛んだ。
月末で田島が立て込んでいて、峰岸のほうから「今週はええよ」と言った。次の週も、田島が外出していた。その次は、峰岸が忘れた。
三週間空いた。
空いてしまうと、また言い出しにくくなった。三日かかったあの感覚が戻ってきた。
八月の頭、峰岸は自分のカレンダーではなく、田島のカレンダーに予定を入れた。
金曜十六時、十五分。件名は「業務ツール確認」。
毎回頼むから重い。予定として入っていれば、頼まなくていい。峰岸が二十九年やってきた仕事のなかで、これは何度も使ってきた手だった。自分に対して使ったことがなかっただけだった。
半年たって、峰岸はツールを使えるようにはなっていない。
操作は相変わらず遅いし、新しい機能が出るたびに分からなくなる。
変わったのは、数字の出どころを説明できるようになったことだった。どこからどこまでを集計していて、何が入っていないか。それだけは分かる。
会議で「そこは集計に入ってへんな」と峰岸が言うと、若手が資料を直す。二十九年ぶんの土地勘が、ようやく新しい仕組みの上で動きはじめた。
田島は最近、金曜の十五分に自分の相談を持ってくるようになった。だいたい、社内の誰に話を通すか、という話だった。
金曜の十六時。カレンダーが鳴る。
峰岸はノートを持って、田島の席まで歩いていく。
「今週、どっちの話からいこか」
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。