Story
自治体の主査が、月にひとつだけ変えた話
窓口の前で、また同じ説明をしていた。
必要な書類が一枚足りず、出直してもらうことになる。今週で四人目だった。四人とも、同じ書類を持ってきていなかった。
「申し訳ありません、こちらもお持ちいただく必要がありまして」
相手は、疲れた顔で「また来ないかんのですか」と言った。
桑野は頭を下げた。四十六歳。市役所で二十三年目、いまは市民課の主査をしている。
桑野が最後に何かを変えようとしたのは、たしか三十代の前半だった。
窓口の混雑を減らす案を作って、係長に出した。係長は読んで、こう言った。
「悪ないけど、これ他の課にも影響出るからな。次の見直しのときにな」
次の見直しは来なかった。というより、来たのかもしれないが、そのころには桑野が忘れていた。
それから十年以上、桑野は言われたことをやっていた。前例のとおりに処理し、前例のないものは上に上げ、上で止まる。
この職場では何も変わらない。そう思っていた。思っているほうが、楽でもあった。
八月、隣の課に若い職員が異動してきた。
入って三年目の、二十六歳。名前は原田といった。
ある日、桑野が廊下を歩いていると、原田が待合の掲示板の前で、貼り紙を貼り替えていた。
手書きだった。「先にこちらをご確認ください」と大きく書いて、必要な書類を三つ並べてある。
桑野は思わず聞いた。
「それ、誰かに言われたん」
原田は振り返って、少し困った顔をした。
「いえ。掲示板の貼り紙って、決裁いらないので」
桑野は、その日ずっとその言葉を考えていた。
決裁がいらない範囲。
桑野が三十代で出した案は、他の課に影響が出る案だった。だから止まった。止まった理由は、案が悪かったからではなく、大きすぎたからだった。
そして桑野は、その一回で「ここでは何も変わらない」と結論を出していた。
変えられないと決めていたのは、たぶん自分だった。
十年以上、桑野は一度も、決裁のいらない範囲を探していなかった。
九月から、桑野は月に一つだけ試すことにした。
条件を一つ決めた。自分の判断で完結すること。誰かの承認が要るものは、その月はやらない。
九月にやったのは、窓口に置く案内の紙を、A4からA5に変えて、文字を大きくしたことだった。
十月は、よく聞かれる質問の順番に並べ替えた。
十一月は、書類の記入例を、実際に間違いの多い箇所だけ赤で囲んだ。
どれも、効果があったのかどうか分からない。数えていなかった。
十二月は、できなかった。
年末は窓口が混む。桑野は月末に気づいて、何もしていないことに少し落ち込んだ。
一月も飛んだ。二か月飛ぶと、もうやめた形になる。
二月の頭、桑野は手帳の月初のページに、四角い枠を書いた。
枠のなかに、その月に変えたことを一行書く。書けなければ空欄のまま残る。
空欄が二つ並んでいるのは、思ったより気分が悪かった。
忙しい月ほど手が出ないと分かったので、月初に決めることにした。月末に振り返って気づくのでは、遅い。
一年で、桑野が変えたのは九つだった。三か月は空欄だった。
そのうち八つは、たぶん誰も気づいていない。
一つだけ、係長が気づいた。記入例の赤囲みを見て、「これ分かりやすいな。他の窓口でも使えるんちゃう」と言った。
その一件だけ、課の会議に上がった。決裁が要る話になったが、すでに実物があったので、話は早かった。
桑野は、三十代のときとの違いを考えた。あのときは、紙の上の案だった。今回は、もう窓口に貼ってある物だった。
窓口の前で、書類が足りない人が来た。
今月は、四人ではなく一人だった。減ったのが貼り紙のおかげなのか、たまたまなのかは分からない。
桑野は頭を下げてから、手帳を開いた。二月の枠は、まだ空いている。
あと一週間ある。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。