Story

ビルメンテナンス会社の課長が、引き留めずに聞いた話

ビルメンテナンス 課長・40代後半 人間関係

「少し、お時間いいですか」

夕方五時を回って、現場から戻ってきたばかりの谷口が、課長席の横に立っていた。作業着の袖に、まだ埃がついている。

中村は、PCの画面から目を離した。

「いいよ。会議室にするか」

「いえ、ここで。すぐ終わります」

谷口は、一度息を吸った。

「辞めたいと、思っています」


中村の頭のなかで、言葉がいくつも浮かんだ。

来月、谷口が主担当に入る現場がある。二人欠員の状態で、谷口が抜ければ回らない。給料は、来期から見直す話を上と進めている。異動の希望なら、たぶん通せる。

どれも、口に出る寸前だった。

どれを言っても、谷口には、「条件を出して引き留めている」と聞こえる。中村は、そう思った。理屈ではなく、そういう顔を、谷口がしていた。

中村は、一つも言わなかった。

代わりに、言った。

「話してくれて、ありがとう」


谷口は、少し肩の力を抜いたようだった。

中村は、会議室に移るかとは、もう聞かなかった。席を、隣の椅子に向けた。

「いつ頃から、そう思うようになった」

「……去年の、春くらいからです」

「いま、いちばん重いのは何だ」

谷口は、しばらく黙って、作業靴の先を見ていた。

「夜間の呼び出しです。月に四回あります。そのたびに、子どもが目を覚まして」

中村は、メモを取った。メモを取っていることを、谷口に見えるようにした。

「決め手は、何かあった」

「先月、四回のうち三回が、同じ設備でした。直しても、また鳴るんです。それで、このまま続けるのは、自分には無理かもしれないと」

夜間の呼び出しのことは、中村も知っていた。ただ、月四回が、谷口にとってどういう重さなのかを、聞いたことがなかった。


三十分ほどで、谷口の話は終わった。

中村は、結論を出さなかった。出したくなった。この呼び出しの分担なら、変えられるかもしれない。同じ設備の件なら、本社に相談する余地がある。

ただ、それを今言うと、谷口が決めた話を、中村が「解決できる問題」にしてしまう気がした。

「今日は、聞くだけにさせてほしい」

中村は、そう言った。

「内容は、俺のなかで整理する。上にも、相談が要るかもしれない。そのときは、先にお前に確認する。明日の午後に、もう一度、話そう」

谷口は頷いた。

「他のメンバーには、まだ言わない」

「はい」

谷口が席を離れてから、中村は、メモをもう一度読んだ。三枚あった。


翌日、中村は、人事の担当に電話をかけた。

谷口の名前は出さなかった。一般論として、退職の相談を受けたときの、会社の手順を聞いた。申し出の期限、引き継ぎの期間、上司が確認すべきこと。

聞いておいてよかった、と思った。自分の頭のなかにあった「手続き」は、半分が思い込みだった。

午後に、谷口と二回目の話をした。

「夜間の呼び出しは、四回を三回にはできるかもしれない。分担の見直しだ。ただ、それで辞める気持ちが変わるかどうかは、俺には分からない」

谷口は、少し驚いた顔をした。

「引き留められるのかと思っていました」

「引き留めたい気持ちは、ある」

中村は、正直に言った。

「でも、お前が決めることだ。決めるために、必要な材料は、こっちで出せるものを全部出す」


谷口は、すぐには答えなかった。

一週間、考えさせてください、と言った。中村は、頷いた。

その一週間、中村は、何度も自分から話しかけたくなった。進捗はどうか。気持ちは変わったか。

三日目に、廊下で谷口とすれ違ったとき、中村は、声をかけかけて、やめた。谷口の肩を叩きたくなったが、手をポケットに入れた。

八日目の朝、谷口は、課長席の前に来た。

「続けます。夜間の分担を、見直してもらえるなら」

中村は、すぐに「ありがとう」とは言わなかった。

「そうか」

一拍おいて、言った。

「ただ、また辛くなったら、そのときも、先に言ってくれ」

谷口は、少しだけ笑った。

「分かりました」

この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。