Story
地方銀行の融資担当が、引き継ぎ書に「やらなかったこと」を書いた話
異動の内示は、二月の第二月曜に来た。四月一日付で、本店の審査部へ。
後藤は、その日の夜、自宅の机に、白い紙を一枚置いた。引き継ぎ書の、最初の一行を書くためだった。
地方銀行の支店で、融資の担当を七年。後任は、他支店から来る、三十代の男性だと聞いている。顔は知らない。
書き始めて、十五分で、手が止まった。
手順は、書ける。
融資の稟議の流れ。月末の報告の期限。取引先ごとの担当者名と、電話番号。ここまでは、スムーズに書けた。A4で、三枚になった。
ただ、読み返してみると、これは誰でも作れる資料だった。後任が来て、三日で、自分で作れる。本店のマニュアルを見れば、半分は、書いてある。
後藤が、七年かけて、身につけたものは、ここに入っていなかった。
どの取引先に、どの順番で話すと、話が通りやすいか。どの書類は、簡単に出すと、あとで揉めるか。支店長が、何を気にする人か。
それは、手順ではなく、頭のなかにしか、なかった。
決まらないまま、一週間が過ぎた。
その間に、支店の先輩である、古川という次長に、何気なく話した。
「引き継ぎ書、書けなくて」
古川は、コーヒーを飲みながら、少し考えた。
「手順は書けるんだろう」
「はい。ただ、手順だけだと、誰でも作れるものになって」
「そうだな」
古川は、カップを置いた。
「俺は、前の異動のとき、やらなかったことを、書いたよ」
「やらなかったこと」
「やってみたけど、うまくいかなかったこと。それと、気づいてたけど、手を付けなかったこと。理由も一緒に。後任は、それ読んで、二度手間を減らしたって言ってた」
その夜、後藤は、紙の下半分に、見出しを一つ書いた。
「やらなかったこと」。
最初の一つは、すぐ出てきた。三年前に、A社に対して、融資の枠を、増やす提案をしなかった。理由は、A社の経理担当が、数字の説明を、嫌っていたから。説明を省略して提案しても、通らなかった。
二つ目も、出た。B社の社長は、午前中に連絡しないほうがいい。理由は、朝の時間に、現場で動いているから。
三つ目は、少し書きにくかった。確定前の月末の数字を、口頭で支店長に伝えないこと。理由は、伝えると、支店長が本部に先に報告してしまい、数字が動いたときに、訂正の連絡が増えるから。
これは、書いていいのか、迷った。支店長の人柄の話になる。ただ、後任がこれを知らなければ、同じ場所で、同じように、困る。後藤は、事実だけを、書いた。評価は、書かなかった。
書き続けるのは、簡単ではなかった。
三月に入って、期末の処理が重なった。毎日、帰宅は二十二時を回った。引き継ぎ書は、二日、手付かずだった。
三日目の夜に、後藤は、メモ帳を開いた。
十五分、と決めた。今日は、取引先を、一社。それだけ。
C社について、書いた。決裁者と、実務の担当が、別であること。決裁者に話しても、実務の担当に、先に説明しないと、動かないこと。
十五分で、書き終えた。
それから、毎晩、一社か、一つの場面を、書いた。やらない日は、手帳の隅に、×を付けた。四つ、×が並んだとき、後藤は、残りの期間で、書けることを、数え直した。
三月の最終週、後任から、一度、電話が来た。
「新しく担当になる、山崎です。引き継ぎの資料は、拝見しました」
「ありがとうございます」
「一つ、お聞きしたいんですが」
「はい」
「最後のページの、『やらなかったこと』の、B社の件。午前に連絡しない理由は、書いてありますが、午後のいつ頃が、通りやすいですか」
後藤は、少しだけ、笑った。
「午後の、二時から四時の間が、多いです。それより遅いと、社長が、出られていることが、少ない」
「ありがとうございます。助かります」
山崎は、そこで、一度、言葉を切った。
「手順は、本店のマニュアルを見れば、書いてあるので。こういうのが、一番、ありがたいです」
四月一日、後藤は、本店の審査部の席に、初めて座った。
机の上には、前任者が残した、手順書が、一冊置いてあった。
めくると、薄かった。手順だけだった。
後藤は、それを閉じて、自分のノートを開いた。
最初のページに、「迷ったこと」と書いた。この部署での最初の一行は、それにしようと決めていた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。