Story
ホテルのフロント課長代理が、悪い報告を当日中にした話
午後三時のフロントは、チェックイン前の静かな時間だ。
橋本は、予約システムの画面を見たまま、マウスを動かせずにいた。団体の部屋割りが、一件ずれている。十月の第三土曜、六十二名。二日前に入れた変更が、先方に伝わっていなかった。
気づいたのは、ほんの十分前だ。いまなら、まだ直せる。ただ、先方の幹事には、おわびの電話を一本入れなければならない。
その前に、支配人に言わなければならなかった。
支配人は、事務所の奥の席にいた。机の上の書類を、強く揃えている。
午前中に、本部から数字のことで電話が入っていたのは知っていた。昼の食事にも出ていない。
橋本は、事務所のドアの前で足を止めた。
今日は、やめておこう。
明日の朝、機嫌が戻ってから話せば、同じことだ。部屋割りは自分で直せる。電話も、自分で入れられる。報告は、あとで「こういうことがあって、対応しました」と言えば足りる。
橋本は、画面に戻った。
翌朝、先方の幹事から電話が来た。
「橋本さん、昨日の夕方に連絡をもらった件なんですが、うちの総務にも確認が取れていなくて」
話は、思ったより大きくなっていた。先方の社内で、別の部署が違う部屋割りの案内を出していたのだ。橋本が自分で直した修正は、一部にしか届いていなかった。
支配人に報告したのは、その電話のあと、午前十時だった。
支配人は、怒鳴らなかった。ただ、報告書を一枚見て、静かに言った。
「昨日の夕方には、分かっていたんだな」
「……はい」
「なんで言わなかった」
橋本は、答えられなかった。機嫌が悪そうだったからです、とは、言えなかった。
その夜、橋本は、自分が何を避けていたのかを考えた。
支配人が怒るのが怖かった。それは本当だ。ただ、怒られるのは、悪い報告の内容に対してではない。
昨日の夕方に言っていれば、「部屋割りがずれていた。先方に電話して、修正を確認します」で済んだ。
今日は、同じ件が「なぜ隠していたのか」に変わっていた。
機嫌を見て延ばした一日は、悪い報告を小さくしてくれなかった。大きくしただけだった。
橋本は、付箋を一枚、モニターの縁に貼った。
四行だけ書いた。
「何が起きた」「誰に、いつ」「対応案」「決めてほしいこと」。
悪い報告が出たら、この四つを埋めてから、事務所に行く。埋められなければ、埋められないと言いに行く。機嫌は、見ない。
最初に使ったのは、翌週の水曜だった。従業員の勤務表に、一人分の入力漏れがあった。気づいたのは、午後の四時。
橋本は付箋を埋めて、事務所のドアを叩いた。
「悪い報告があります。三分だけ、いいですか」
支配人は、顔を上げずに「どうぞ」と言った。声は、いつもより低かった。
橋本は、読み上げるように言った。何が起きて、誰に影響が出て、対応案が二つあって、どちらにするか決めてほしい、と。
「Aで」
それだけだった。
続かなかったのは、三週目だった。
月末の締め処理が重なった日で、橋本は朝から数字を追っていた。夕方に、請求書の宛名違いが見つかった。
付箋は貼ってある。ただ、埋める時間が惜しかった。支配人は、その日も機嫌が悪かった。
橋本は、また「明日にしよう」と思った。
思ったところで、手が止まった。あの朝の、先方からの電話が、頭のなかで鳴った。
橋本は、付箋を埋める代わりに、支配人あてにチャットを一行だけ送った。
「請求書の宛名違いがありました。対応は私のほうで進めます。詳細は、十七時に口頭でお伝えします」
口頭で話す時間までは、まだ余裕があった。ただ、知らせたという事実だけは、先に残しておけた。
十七時に、橋本は事務所に行った。支配人は、「分かった」とだけ言った。
三か月たった。
支配人の機嫌は、あまり変わっていない。月末は相変わらず低い声だ。
変わったのは、橋本が事務所のドアの前で足を止める回数だった。止まることは、まだある。ただ、止まった時間が、短くなった。
十二月の初め、年末の宴会の件で、また小さなミスが見つかった。
橋本は付箋を埋めて、事務所に入った。支配人は電話中だった。橋本は、入口で待った。
電話が終わった。
「悪い報告です」
支配人は、少しだけ笑った。
「今日は、何だ」
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。