Story
青果卸の課長が、愚痴に「そうですね」と返し続けて、チームの空気を変えてしまった話
早朝の市場は、冷える。
休憩室で、ベテランの内田が、缶コーヒーを持ったまま言った。
「今の仕入れ担当、現場を知らないよな。あれじゃ、売れない」
課長の杉浦は、頷いた。
「そうですね」
内田は、少し満足そうに、続けた。
「だよな。みんな、思ってるんだよ」
杉浦は、否定するのが、苦手だった。否定すれば、相手の気持ちを、傷つける気がした。だから、愚痴には、頷いた。「そうですね」「分かります」
一か月で、休憩室の空気は、変わった。
愚痴が、増えた。内田の愚痴を聞いていた若手が、自分の愚痴を、言い始めた。杉浦は、どれにも、頷いた。
気づいたとき、休憩室は、「会社への不満を、確認し合う場所」になっていた。
ある朝、若手の吉岡が、杉浦に言った。
「課長も、そう思ってるんですよね。仕入れが悪いって」
杉浦は、固まった。
そんなことは、言っていない。ただ、頷いただけだった。でも、頷いたことは、「同意した」ことになっていた。
その日から、杉浦は、返し方を変えた。
内田が、別の日に、言った。
「あの営業、また値引き頼んできたぞ」
杉浦は、頷かなかった。
「値引きの依頼が、また来たんですね」
内田は、拍子抜けした顔をした。
「そうなんだよ。それで」
「どうしたいですか」
内田は、少し考えて、言った。
「……いや、どうもできないんだけどな。ただ、言いたかっただけだ」
それで、いいと、杉浦は思った。
聞くことと、同意することは、別のことだった。内容には、頷かない。気持ちは、受け取る。
休憩室の愚痴は、すぐには減らなかった。ただ、吉岡は、もう、「課長もそう思ってますよね」とは、言わなくなった。
杉浦は、「そうですね」と言わない日を、数えた。三日目に、数えるのを、やめた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。