Story
設計事務所のリーダーが、水曜の15分だけ聞くことにした話
昼食のあと、森田は、席を立った。
特に用事はなかった。給湯室に行くふりをして、若手の席の後ろを、ゆっくり通った。
渡辺の画面には、図面が開いていた。昨日と、大きくは変わっていない。変わったのは、寸法線が三本増えているところだけだ。
「順調?」
声は、軽くしたつもりだった。
「はい、順調です」
渡辺は、画面から目を離さずに、答えた。
森田は、給湯室でお茶を淹れて、席に戻った。この動作を、今日、三回目だった。
設計事務所のチームリーダーになって、二年になる。十人ほどの規模の事務所で、森田の下に、三人がついている。
先月から、集合住宅の外構図面を、渡辺に任せた。入社四年目で、そろそろ一人で通しで持たせたい時期だ。
任せた、はずだった。
ただ、森田は、毎日、気になった。図面の線が、どこまで進んだか。納まりは、あの方向で大丈夫か。声をかけるたびに、渡辺は「順調です」と言う。森田は、それで、少し安心して、少しして、また不安になった。
一週間たった頃、渡辺の、返事が、短くなった。
決定的だったのは、先輩の鈴木に、飲みの席で言われたことだった。
「森田さん、最近、渡辺くんの席の後ろを、よく通りますよね」
「そうですか」
「あれ、本人は、見られてるって、思うかもしれませんよ。俺も、若いとき、課長にやられて。やめてくれって言えないんですよ、あれ」
森田は、グラスを置いた。
信用していないのではない。ただ、任せた以上、責任は自分にある。何かあったとき、気づかなかったでは済まされない。
その気持ちが、毎日の「順調?」の中身だった。確認ではなく、自分の不安を、渡辺に預けていた。
翌日、森田は、渡辺を呼んだ。
「水曜の午後に、十五分だけ、時間をもらえるかな。状況を聞かせてほしい。それまでは、ひとりで進めてもらって、構わない」
渡辺は、少し意外そうな顔をした。
「毎日の確認は、やめるんですか」
「やめる。水曜に、まとめて聞く。聞くことは、三つだけ。何割進んだか。止まりそうなところはあるか。俺に決めてほしいことはあるか」
「それだけですか」
「それだけ。その場で、図面に手を入れたりしない。気づいたことは、材料として、一言添えるだけにする」
渡辺は、頷いた。それから、少しだけ笑った。
「助かります」
最初の水曜は、十五分では終わらなかった。
渡辺の説明は、思ったより、具体的だった。進捗は六割。止まりそうなのは、敷地の高低差の処理。決めてほしいのは、擁壁のデザインを、施主の希望に寄せるか、コストに寄せるか。
森田は、聞いていて、胸の奥が、少し静かになった。
毎日聞いていたときは、「順調です」の一言しか、返ってこなかった。水曜にまとめて聞くと、渡辺は、ずっと考えていたことを、全部出してきた。
森田は、擁壁の件に、判断を出した。
「コスト寄りで進めて。ただ、施主の担当には、先に、一言入れておいて」
図面には、触れなかった。
三週目の火曜、森田は、また、渡辺の席の後ろを通った。
用事は、なかった。
通ってしまってから、気づいた。午前中に、取引先から、渡辺の担当する案件の見積りに、質問が入っていた。気になった、はずだった。
渡辺は、振り向かなかった。画面を見たまま、手を動かしていた。
森田は、そのまま、給湯室まで行って、戻ってきた。
席に着いて、手帳を開いた。水曜の午後に、「見積り質問の件」と、書いた。
それだけで、少し、気持ちが落ち着いた。
二か月して、渡辺の図面が、施主に出た。
森田が見ていた頃と、少し違う納まりになっていた。擁壁の見せ方も、植栽の入れ方も、森田なら、こうはしない。
ただ、施主は、気に入った。
確認の水曜は、いまも、続いている。十五分で、終わることが多くなった。
終わったあと、森田は、手帳の水曜の欄に、一行だけ書く。
「今日は、触らなかった」。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。