Story
食品卸の営業所長が、年上の部下に役割を渡した話
朝六時の営業所は、冷蔵庫のモーター音しかしない。
井上は、出荷表の前に立って、今日の配送先を確認していた。取引先の飲食店が、二十八軒。そのうち四軒が、担当の山田さんの持ち分だ。
山田さんは、六十一歳。この営業所で、三十五年働いている。井上より、二十二歳年上だ。
去年の四月、井上が所長として赴任してきたとき、山田さんは、玄関まで出迎えてくれた。「お世話になります、所長」と、頭を下げた。
井上は、それから、ずっと、困っている。
指示を、出せないのだった。
新しい取引先の開拓は、若手に振れる。ただ、既存の取引先の見直しや、仕入れ先との価格交渉となると、山田さんに頼むのが筋だ。三十五年の蓄積がある。
井上は、毎回、こう言った。
「山田さん、この件、お任せします」
「やりやすいように、進めてください」
山田さんは、いつも、「承知しました」と答えた。そして、静かに、何も動かなかった。
いや、動いてはいる。ただ、報告が来ない。進んでいるのかどうか、分からない。聞くと、「ちゃんとやっています」と返ってくる。
半年たって、井上は、山田さんが会議で、ほとんど発言しなくなっていることに気づいた。
十一月の面談で、山田さんが、ぽつりと言った。
年に二度、所長が全員とやる面談だ。事務所の奥の、小さなテーブル。
「所長」
「はい」
「私は、この営業所で、何を期待されているんでしょうか」
井上は、返事に詰まった。
「いえ、責めているわけではないんです。ただ、お任せします、とだけ言われると、自分は、もう必要とされていないのかと、思うことがあって」
井上は、慌てて否定した。そんなことはない。山田さんには、いつも感謝している。
山田さんは、頷いた。それから、少しだけ笑って、言った。
「ありがとうございます。ただ、何をやってほしいのかを、言ってもらえると、私は動けます」
その夜、井上は、自分が口にしてきた言葉を並べてみた。
「お任せします」。「やりやすいように」。「山田さんの経験で」。
敬意のつもりだった。年上の人に、細かい指示を出すのは失礼だと思っていた。
ただ、それは、相手に何も渡していなかった。期待していることも、判断してほしいことも、いつまでにしてほしいかも。
遠慮は、敬意ではなかった。ただ、自分が言いにくかっただけだ。
井上は、手帳の隅に、三つ、書いた。
何を。誰のために。いつまでに。
これを、山田さんへの指示のたびに、埋める。
翌週の月曜、井上は、山田さんの席に行った。
「山田さん、お願いがあります」
声が、少しだけ上ずった。
「新規の若手二人の、同行指導を、山田さんにお願いしたい。月に二回、訪問に一緒に入ってもらって、先方の担当者との距離の取り方を、見せてやってほしい。期待しているのは、二人が、一人で訪問できるようになることです。来年の三月までに」
山田さんは、メモ帳を取り出した。三十年以上使っている、小さな黒い手帳だった。
「二人というのは、坂本くんと、高橋くんですか」
「はい」
「承知しました。ただ、坂本くんのほうは、まず、挨拶の入り方を見直したほうがいい。先方の社長さんに、少し距離がある」
井上は、その場で、頷いた。
「そのあたりは、山田さんの判断で、進めてください」
言ってから、いまのは、「お任せします」とは違う、と思った。範囲が、はっきりしている。
戻ってしまうのは、早かった。
二月の末、仕入れ先との価格改定の時期に、井上は、また「山田さん、そこは、お任せします」と言っていた。
言ってから、山田さんの手が、一瞬止まったのを、見た。
井上は、その日のうちに、もう一度、席に行った。
「すみません。さっきの、言い直させてください」
「はい」
「A社との価格交渉を、山田さんにお願いします。期待しているのは、現行の単価を、三パーセント以内の上昇に抑えること。期限は、来週の金曜。交渉の進め方は、山田さんに任せます」
山田さんは、少し笑った。
「所長、言い直さなくても」
「いや、ちゃんと、言っておきたくて」
山田さんの手帳に、ペンが走った。
春になって、坂本は、一人で先方に入るようになった。
山田さんは、同行を月に一回に減らした。残った時間で、古い取引先の見直しを、少しずつ始めた。
会議で、山田さんが発言する回数は、去年の秋より、増えた。劇的にではない。月に一回か、二回。
ただ、井上は、山田さんが話すとき、メモを取る手を、止めないようにしていた。
三十五年分の経験は、井上の六年分とは、違うところに、積み上がっている。それを使ってもらうには、使い道を、こちらが言葉にするしかなかった。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。