Story
化学メーカーの品質管理課長が、説明会で白い紙を回した話
会議室の空調は、少し効きすぎていた。
品質管理課長の三枝は、スクリーンの前に立って、最後のスライドを送った。
「以上が、来月から変わる検査手順です。何か、質問は」
十人が、座っていた。誰も、手を挙げなかった。
うなずいている人が、何人かいた。視線をそらしている人も、いた。
「では、これで進めます」
三枝は、資料を閉じた。説明は、二十分で終わった。時間どおりだった。
翌月の末、検査記録に、同じ種類の記入漏れが三件見つかった。
新しい手順の、三番目の工程だった。
三枝は、現場の班長を呼んで、確認した。
「ここ、説明のときに、図で示したと思うんだが」
班長の石田は、少し間を置いた。
「……図の、矢印の意味が、分からなくて」
「分からなかった? あの場で、聞いてくれれば」
「聞けなかったんです。ほかの人は、分かっているんだろうと思って」
三枝は、言葉に詰まった。
後日、ほかの班長にも、一人ずつ聞いてみた。全員が、同じ答えだった。自分だけが、分かっていないのだと思っていた。
その晩、三枝は、昔の自分のことを思い出した。
入社二年目の頃。会議で、専門用語が飛び交っていた。意味が、半分も分からなかった。周りは、うなずいていた。自分だけが、遅れているのだと思った。
あの会議で、あの場にいた全員が、同じことを思っていたのかもしれない。
確かめようが、なかった。
次の説明会で、三枝は、資料の最後に、一枚、足した。
真っ白な紙だった。
説明が終わったあと、三枝は、手元の資料を持ち上げた。
「その前に、一つ、先に言っておきます。私は、この図の、右下の矢印が、最初は何を指しているのか、分かりませんでした」
会議室の空気が、わずかに動いた。
「いま、全員に、白い紙を回します。説明の中で、分かりにくかった点を、一つだけ書いてください。名前は要りません」
紙が、回った。ペンの走る音が、静かな部屋に、小さく響いた。
集まった紙は、九枚あった。
三枝は、一枚ずつ、めくった。
「矢印の意味」。
「矢印の意味」。
「三番目の工程の、記入の順番」。
「矢印の意味」。
九枚のうち、五枚が、同じ箇所だった。
石田は、紙を渡したとき、下を向いたままだった。けれど、三枝がそのまま読み上げたとき、顔を上げて、隣の席を見た。
隣の班長も、同じようにこちらを見ていた。
「……お前も、分からなかったのか」
「いや、お前もか」
小さな笑いが、会議室に広がった。
その日の説明会は、予定より三十分、延びた。
三枝は、矢印を、描き直した。図の隅に、一文を足した。
「ここから、ここへ、順番に記入します」。
それだけで、足りた。
会議室を出るとき、白い紙が、まだ、数枚、机の上に残っていた。
来月の説明会でも、また一枚、配ろうと思った。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。