Story
出版社の編集デスクが、「ちゃんとやって」を見たままに言い換えた話
校了前日の編集部は、紙の匂いがする。
秋山は、ゲラを机に置いて、赤ペンを持ったまま、動かなかった。
三つ。赤字が、反映されていない箇所が、三つあった。前回の校正で、自分が書き込んだ赤字だった。
若手の川端は、斜め向かいの席で、別の原稿を読んでいる。
「川端」
「はい」
「もう少し、ちゃんとやってくれ」
川端は、一瞬、ゲラを見て、すぐに顔を上げた。
「すみません。気をつけます」
それで、終わった。秋山は、言うべきことを、言ったつもりだった。
翌月も、似たことが起きた。
赤字の反映漏れ。今度は、二つ。川端は、また「すみません」と言った。秋山は、また「ちゃんとやって」と言った。
編集部のフロアで、一番長く勤めている先輩の笹井が、お茶を持って通りかかった。
「秋山さん、さっきの、何を見たの」
「何をって」
「川端さんに、何が起きてたって、伝えたの」
秋山は、言葉に詰まった。
「ちゃんとやって、とは言いました」
笹井は、お茶をすすって、少し笑った。
「それ、川端さんには、機嫌しか伝わってないと思うよ」
その夜、秋山は、手帳に三行書いた。
何が起きたか。赤字が三か所、反映されていなかった。
それで、何が起きたか。印刷所への再入稿が必要になり、一日遅れた。
次から、何をしてほしいか。戻す前に、赤字の件数を数える。
書いて、秋山は、少し驚いた。
どれも、これまで、頭の中にはあった。ただ、口から出ていたのは、「ちゃんと」だけだった。
次に反映漏れが出たのは、二週間後だった。
秋山は、ゲラを持って、川端の席に行った。人のいない、校閲室の隅を選んだ。
「昨日のゲラ、赤字が二か所、反映されていなかった」
川端は、黙って頷いた。
「それで、印刷所に電話を一本、入れた。入稿が、半日遅れた」
「はい」
「次から、戻す前に、赤字の件数を数えてほしい。ゲラの端に、数字を書いて」
川端は、少し間を置いた。
「件数を、書くんですね」
「そう。それだけでいい」
川端の顔から、肩のあたりが、ふっと緩んだのが見えた。怒られている顔では、なかった。
秋山は、それから、ほめるときも、同じ形を使った。
「見出しの案が、三つ並べてあった。選ぶのが、早かった」
「ありがとうございます」
「次の特集も、同じ形で、頼む」
川端は、驚いたように、秋山を見た。「いい」としか言わなかった上司が、「何が良かった」を言っていた。
校了の夜、ゲラの端に、小さな数字が書いてあった。「5/5」と、川端の字で。
秋山は、それを見て、何も言わずに、ゲラを印刷所の封筒に入れた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。