Story
損保代理店の営業が、1on1に三行のメモを持っていった話
「何か、ある?」
所長の菅原は、そう言って、湯呑みを両手で持った。
三浦は、少し考えるふりをして、答えた。
「特にないです」
「そうか。じゃあ、今日は終わりにしよう」
十五分で終わった。月に一度の1on1は、元請けの保険会社の指示で始まったものだった。所長が悪い人ではないことは、三浦も知っている。更新の件数も、毎月ちゃんと見てくれる。
それなのに、毎回、同じ言葉しか出てこない。
話すことが、ないわけではなかった。
法人のお客さんから、見積もりの値引きを頼まれる。どこまで自分の判断でやっていいのか、三浦は、入社して五年たっても、はっきり知らなかった。聞こうと思ったことは、何度もある。けれど、そんなことも知らないのか、と思われるのが怖かった。
それで、毎回、確認の電話を所長にかけていた。電話なら、五秒で終わる。1on1の場で聞くのは、なぜか、もっと大きなことのような気がした。
帰りの車で、三浦は、信号待ちの間に考えた。
話すことがないのではない。何を話していい場なのか、分かっていないだけだ。
翌月の前の晩、三浦は、手帳の端に三行書いた。
困っていること。法人の新規が、見積もりまでしか進まない。
確認したいこと。値引きは、どこまで自分の判断でいいか。
やったこと。更新満期の一覧を、色分けした。
書いてみると、思ったよりも、短かった。これだけなのか、と少し拍子抜けした。
当日、所長の「何か、ある?」に、三浦は、いつもの答えを飲み込んだ。
「今日は、三つあります」
菅原が、湯呑みを置いた。
「ひとつ目は、法人の新規が、見積もりまでしか進まないことです。もうひとつ、確認したいことがあって」
三浦は、手帳の二行目を読んだ。
「値引きは、どこまで、自分の判断でやっていいですか」
所長は、意外な顔をした。それから、腕を組んで、天井を見た。
「……決めてなかったな」
「え」
「いや、そうか。人によって、聞いてくるから、そのたびに答えていた。決めて、渡してなかった」
三浦は、返事に困った。聞けなかった自分だけが悪いのだと、五年間、思っていた。
その場で、線を引いた。三パーセントまでは、三浦の判断。それを超えるときは、所長に電話。
たったそれだけのことだった。
三行目の、色分けの話は、所長が、手帳を覗き込んだ。
「それ、いいな。ほかの人にも、見せていいか」
「あ、はい」
三浦は、少し笑ってしまった。何の自慢にもならないと思っていたことだった。
それから、1on1の前の五分は、三浦の習慣になった。
毎回、三行を書く。困っていること、確認したいこと、やったこと。三つ全部が埋まらない月もある。そういう月は、一行で出す。
所長の「何か、ある?」は、変わらない。
ただ、三浦の答えが変わった。
「今日は、二つあります」
「うん」
湯呑みを持つ所長の手は、前よりも、少しだけゆっくりに見えた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。