Story
地方新聞社のデスクが、職務経歴書を一晩で書いてみた話
夜の編集局は、昼よりも、天井が低く感じる。
佐伯は、最終版を送り出して、椅子に深く座った。紙面の端に、販売局からの回覧が挟んである。部数の推移。赤い数字が、前の月より、また少し伸びていた。
支局の統合が、来年度にある。噂ではなく、社内報に出た。
デスクの席から、編集局のフロアが見える。若い記者は、減った。残っているのは、佐伯と同じくらいの年の人間が多い。
この会社で、あと何年やれるのだろう。
そう考えた夜は、一時間、眠れなかった。
辞めるつもりは、なかった。
家には、ローンが残っている。娘は、来年、大学に入る。新聞の仕事が嫌いなわけでもなかった。
きっかけは、一年下の後輩が、先月、別の会社へ移ったことだった。送別会の帰り、後輩が言った。
「佐伯さん、職務経歴書って、書いたことあります?」
「ないよ。入社してから、一度も」
「書くだけで、結構、気持ちが変わりますよ。辞める辞めないじゃなくて」
佐伯は、そのときは、聞き流した。
その週末、佐伯は、パソコンを開いた。
テンプレートを検索して、空欄に名前を入れた。「経歴」の欄で、手が止まった。
肩書きを、書いてみる。「整理部デスク」。それだけでは、会社の外の人に、何も伝わらない。
何をしてきたのか。
佐伯は、一度、天井を見て、書き始めた。
「県政の連載企画を、三年間、担当。年間四十本の記事の、企画立案と、取材の割り振り、入稿までの進行を管理」
「若手記者七名の、原稿の指導。見出しと構成の編集」
「災害報道の、紙面編成の手順書を作成。初動の判断を、三段階に整理」
書いているうちに、手が動いた。
どれも、会社の中では、当たり前のことだった。「何をやったか」ではなく、「何を、どれくらい、どう変えたか」に直すと、社外の人にも通じる言葉になった。
一晩で、A4で一枚と半分、書けた。
書き終えて、佐伯は、気づいた。
不安が消えたわけではなかった。部数のグラフは、そのままだ。ただ、夜に感じていたものが、少し違う形になっていた。
何も持っていないから、不安だったのではない。持っているものが、見えていなかった。
翌日、佐伯は、もう二つ、やってみた。
家計簿アプリで、毎月の固定費を、一覧にした。住宅ローン、保険、通信費、教育費。足してみると、思っていたより、少なかった。思っていたより、減らせない額でもあった。
もう一つは、手帳をめくって、取材で知り合った広告代理店の人の名前を、探した。年に一度、食事をする相手だった。去年は、会えていなかった。
「ご無沙汰しています。今年も、どうですか」
そう、メールを書いた。仕事の相談ではなかった。ただ、窓を一つ、開けておきたかった。
職務経歴書は、保存して、名前を変えた。「2026_経歴」。
どこにも、出さなかった。
編集局の夜は、同じように続いた。支局の統合の件は、まだ、何も決まっていない。
佐伯は、最終版を送り出して、立ち上がった。
帰りの車で、ふと思った。眠れない夜は、前より少し、短くなっている。
家に着いたとき、玄関の電気が、まだ点いていた。
この物語はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは関係ありません。